冬の終わりが近づいていた。 春の匂いが風に混じり、どこか浮き立つような陽気が町を包んでいる。 それでもまだ、肌を刺すような寒さは残っていた。
「そろそろ出たら?」
同棲している日菜子が呆れたように覗き込んでくる。
「……無理だな」
声が震えた。俺は何度も試したんだ。だけど足を外に出そうとするたび、ぬくもりが引き戻す。まるで見えない手が足首を掴み、心地よい罠へと誘うかのように。
「こたつには魔力があるって知ってるか?」
「はいはい、ぬくぬく魔法ね」
「違う!これは本物だ!俺はもう昨夜からここから出られない!」
「馬鹿じゃないの?」
日菜子は笑うが俺にはわかる。このこたつは何かがおかしい──。
最初はなんてことなかった。昨日の夜、こたつでうたた寝してしまい、気がついたら深夜だった。布団に移ろうとしたが、こたつの温もりが心地よすぎて動けなくなった。
明け方、何度か意を決して足を抜こうとした。だが、こたつの外は異様なまでに寒く、出るたびに身震いし、気づけばまたすぐに戻ってしまっていた。
そして今、昼になっても俺はここにいる。
このままでは俺は──。
「このままじゃ、あんた溶けるよ?」
日菜子の言葉にゾクリとした。
たしかに、何かが溶けているような気がする。時間の感覚か、意志の力か、それとも、俺自身の存在か──。
「……日菜子、頼む。俺を助けてくれ」
彼女は大げさにため息をつくと、こたつの布団を勢いよくめくった。
その瞬間、冷気が襲い俺は思わず悲鳴を上げた。
「わーーー!!」
「いいから出なさい!」
俺は渾身の力を振り絞り、足をこたつの外へ放り出した。だが次の瞬間、何かが引き戻す。見えない手が、ぬくもりが、俺を手放すまいとしがみつく。
「ふざけてるの?」
日菜子が手を伸ばし、俺の腕を引っ張る。
「……うっ」
全身に抵抗する力を込め、俺は渾身の力で跳ねるようにしてこたつから飛び出した。
──床に倒れ込み、荒い息をつく。
「……助かった」
「大げさすぎ」
日菜子が笑う。でも俺には分かる。このこたつには確かに魔力があった。
「こいつは人をダメにするな……」
「ならもう片付けちゃう?春になるし」
「まだ寒いけど……その方がいいかもな……」
──そのとき、こたつの中で何かが動いた気がした。
「おい、今こたつの中で何か動かなかったか?」
「は?」
日菜子が怪訝な顔をする。俺は恐る恐る、布団を少しだけ持ち上げてみた。
すると──
こたつの奥は暗く、深い闇が広がっている。
目を凝らすとわずかに何かがざわついた。
そして、静寂の中で小さな声が聞こえた。
「戻っておいで……」
俺は凍りついた。
日菜子がこたつを覗き込み、「何もいないじゃん」と笑うが、俺の耳にははっきりと聞こえていた。
その声はどこか懐かしく、甘く、そして心地よかった。
このまま戻ってしまえば、またあの温もりに包まれることができる。
何も考えなくていい。何も決めなくていい。ただ、ぬくもりの中で溶けていけば──。
──そう思った瞬間俺は気づいた。
これは俺自身の声だった。
快適さの中で時間を溶かし、目を閉じ、現実を忘れていたい。だからこそ、こたつの魔力をその言い訳にしたかったんだ。つまりこれは──。
「怠惰だ!」まるで今この世に生まれてきたかのような、清々しい気分だった。
「真顔で何言ってんの?ほんとに脳が溶けたんじゃない?」冷ややかな目で日菜子が俺を見る。
「……さて、片付けるか!」
俺はそう言って布団を畳むと、どこからか「待ってるよ……」という声が聞こえた気がした。
しかし俺はもう戻らない──たぶん。