彼の音楽が称賛を浴び、多くの人々の耳に届いた時代があった。しかし、それも過去の話。時の流れとともに、彼の名は記憶の片隅へと追いやられる。そして、──誰も振り向かなくなった。
恋人は去り、家族にも見捨てられた。テレビもラジオも彼の名を呼ぶことはない。それでも彼はギターを手放さなかった。
──音楽だけが彼のすべてだったのだ。
彼のギターは、どこか寂しげな響きを帯びていた。ゆっくりと語りかけるような旋律が、感情の奥深くにそっと染み込む。
かつてはライブハウスで喝采を浴びたその音も、今ではわずか数人の拍手が鳴るだけ。ストリートで奏でれば、小銭がひとつ転がる。──だが、足を止めて聴いてくれる人はほとんどいなかった。
それでも彼は歌い続ける。
そんな生活を続けているうちに、突然指が動かなくなった。足にも力が入らない。──気づけば病院のベッドの上だった。無機質な機械音、白い天井。医者は申し訳なさそうに告げる。「……長くはないです」と。
彼は静かに笑った。「まいったな……」悔しさか安堵か、自分でもわからない。ただ、ギターを弾けないことのほうがずっと恐ろしかった。
病室にはギターケースが立てかけられていた。誰かが運んでくれたのだろう。しかし、もう抱える力すら残っていない。
──まだ。
その夜、とある看護師の女性が彼の病室の前を通りかかった。交代の時間が近づき、ナースステーションへ戻ろうとしたのだが、言葉にならない違和感が胸の奥を掠める。──そして、何かに呼ばるように、静かにドアを開けた。
薄暗い病室の中。彼は目を閉じ、かすかな声で鼻歌を口ずさんでいた。息が続かず、メロディは何度も途切れそうになる。それでも彼はあきらめなかった。途切れてはまた震わせる。絞り出すように、静かに、何度も、何度も。
その旋律には、まるで時間そのものが刻み込まれているようだった。
歓声に包まれたあの日々。
静寂の中でただ一人、弦を弾いた夜。
誰にも振り向かれず、それでも音を紡ぎ続けた長い年月。
そのすべてが、たったひとつの旋律に息づいていた。
微かに響いていた旋律は、やがて静寂へと溶けていく。最後の余韻が夜の闇に溶けたとき、音楽そのものだった彼は旋律と共に消えていった。
──ある日、とある教会の礼拝堂で、一人の女性がピアノの前に座った。彼女の指が鍵盤に触れると、あの旋律が流れ始める。──切なくも、優しい音。
「……」
聖歌隊の一人が足を止め、間もなく演奏に合わせて歌い出した。誰もこの曲を知らない。それでも不思議と口ずさめた。ひとり、またひとりと声が重なっていく。静かに響く合唱は、まるで音楽そのものが生きているかのようだった。
やがて、彼の音楽はSNSを通じて世界中へと広がった。そしていつしか誰もが口ずさむ。寂しさを溶かし、悲しみを癒やし、喜びを輝かせる旋律。
──誰も彼のことは知らない。しかし、その輝かしくも儚い人生は、人々の中でいつまでも語り継がれた。
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